共感に関する雑感
共感マーケティング、という言葉を聞くようになったのはいつからだろう。
もう数年がたつ気がする。R不動産がはじまったころだったか、その少しあとぐらい。
共感でモノを売る。その人に客がつく。
というのは新しい話でもなんでもなく、むしろ古い話である。
モノの品質に保証がなかった頃は、人に対する信用や共感でモノを買ったものだった。
今はたぶん、モノと情報が溢れかえって、手がかりにするのがヒトということなんだろう。
共感でモノを売る。その人に客がつく。
ということは、悪意の有無に限らず、すれ違い行き違い、こんなはずじゃあ、が一定起こるわけで、世にあまねく一定の品質のモノを、という現代の工業と流通はそこをフォローしたわけだ。
(なお不動産流通業界におけるBtoCでは、これはいまだ定着しておらず、あまたの不動産テックが果敢に挑戦中である)。
ところで。
私は「共感」という言葉が嫌いである。
小学校時代の嫌な思い出が、この言葉を聞くと背中をぞわぞわとはいのぼる。
共感というのは、仲間で(一時的に)気持ちや気分を共有することだ。それは基本的にはとても心地よいことである。
たとえそれが悲しみの感情であっても、互いの嘆きを共有することで、悲しみは癒され、群れの絆は強固になる。
群れを作る生物であるヒトの本能でもある。
乱暴な言い方をすれば、前近代、「個人」という概念が生まれる前は、物語を共有するヒトの群れがあっただけなのだろう。
小中学校では、道徳観や倫理観を装ってこの共感という群れの論理が使われる。
曰く、「全員一丸となって」「クラスをひとつに」。そして感動する物語の共有。運動会とか学芸会とかね。
物語の共有は、共感をつくるベーシックな技法である。
そしてその物語をつくるのに一番簡単でかつ効果的なのは、仮想敵あるいは仮想標的の設定だったりする。
学校では「隣のクラスに負けるな」
こどものコミュニティでは、イジラれる子の設定(=いじめられっ子の設定)
美容健康商品の、「化学物質」の否定。
こうして群れは強固になる。
共感マーケティング的な言い方をすれば、群れ=自店のファンだよね。
物語が大好きないじめられっ子だった私は、個店を愛すると同時に共感におののき、無機質なプロダクトのありがたみを噛みしめる。
(物語性が薄くなったプロダクトに、新たな物語を付与するのは所有者の特権でもある)
臨床心理における「共感」という言葉が、日常語の「共感」の持つ意味とやや異なるのは、共感という作用の強さを注意深く処理した結果なのだろう。
近ごろよく聞く「自己責任」が前近代的自己救済とかぶって聞こえたりする。
そんな時代に共感マーケティングが隆盛して、「インフルエンサー」なんて言葉がはやる。
共感は、物語の共有は楽しいし、心地いい。
流通マンモスと同じ土俵にのるべきではない個店が良さを発揮できるのは、ニッチな環境でのきめ細やかな物語だ。
そこに異論はない。
ただ、共感の怖さは忘れずにいたい。
願わくば同じ場所に現れた他者を排斥してその環境を独占するのではなく、その環境で生きる者たちの豊かな多様性が維持される物語が紡がれますように。
ただの雑感。