身体性と好奇心

今の子どもは刃物を使えないことが多い。使ったことがないから 昔の子が持っていたスキルを持っていないことが多い 子どもに限らず、今の社会は昔自分達が持っていたスキルを失っていることがおおくて、現代人は生きる力がうんぬんという言い回しをときどき見るけれど。

サバイバル技能はそりゃあるに越したことはないが、そういう話ではないと思うので、今の社会と昔の社会で求められるスキル、身に付けたくなるスキルが違うだけだと思う。 生きる=サバイバルするためのスキルの優先度が低くて、ゲームや読書や好きな遊びのスキルを好奇心の赴くままに身につけられる。

なんて幸せな時代だろう

さて、「生きる=サバイバルするためのスキルの優先度が低くて、ゲームや読書や好きな遊びのスキルを好奇心の赴くままに身につけられる」 キモは、後半「好奇心の赴くままに身につけられる」のところで。

なんでかはわからんが、われわれヒトの脳と身体は好奇心の正のフィードバックを受けるようにできているようだ。 「自由な遊びが楽しく」て「どんどん新しい遊びができて」はまさにそれ。好奇心と工夫が正の方向に循環してゆく。 先達が自分の好奇心に好奇心を持ってくれれば最高。

外遊びでのプレイパーク、ゲームではマイクラなどはシステムとしてそれがとてもうまく設計されてるなと思うし、 読書や勉強などは、ある瞬間に一気に世界が広がりさらに先を探っていきたくなる。ビバ好奇心。

「生きる=サバイバルするためのスキルの優先度が低くて、ゲームや読書や好きな遊びのスキルを好奇心の赴くままに身につけられる」 そしてこの前半部のありがたく幸せなところは、社会全体――――すなわちヒトの群れ全体としてみたときに、スキルの多様性が生まれ広がること、そして

サバイバルが優先されざるを得ない環境では適応できない、ある意味弱い個体も、好奇心の正のフィードバックを享受できる機会が多いことにある。
その経験は、その個体が「生きていく力」になるよ。

またヒトの社会で今まで失われた技術はたくさんあるけれど、それを補う知見が記録され積み重ねられ、その結果、技術が生まれている。
それらの中には何の役にも立たなさそうにみえた好奇心や遊びから生まれたものも多分に含まれる。

身体性をともなわない好奇心の多様性も、回り回ってヒトの社会が生きていく力になっているし、
むしろ身体性をともなわないスキルをもヒトの社会が生きていく力にすることができるのが、ヒトという動物の特徴であると思う

なお、ヒトも動物である以上、身体性は重要であることはいうまでもない。念の為。

ただどうか、身体性をともなわない方向への好奇心を、
「本ばっかり読んで」「漫画ばっかり読んで」「テレビばっかり見て」「ゲームばっかりして」「勉強ばっかりして」と、
身体性をともなうものよりも貶めないでほしい。
そして好奇心を伸ばしてやってほしい

それは同じ好奇心――――生きる力の素だ。