「本物」ということば
最近、「本物」という言葉にちょっと辟易している。
じゃあ他のはニセモノなのか? というアマノジャクがついつい頭をもたげる。
というわけで、グチエントリです。
このブログはこういうグチ吐き場になりそうな気がする。
さて、いわく、「本物を知る」「本物をつくる」「本物を提供する」「本物の少ない世の中」などなど。
これが海賊品や不適切な表示の「ニセモノ」に対して、正規品を「本物」というならわかる。でもそうではなく、特に定義なく気分や感覚で言っていることが多いように思う。
消費者が気分や感覚で商品を講評するのは横へ置くとして、商品の提供者がそういう表現をするのが苦手だ。
自然栽培のキュウリをかじって「本物のキュウリの味」とか。
プリントの手ぬぐいに対して、注染手ぬぐいを「本物の日本手ぬぐい」とか。
品質の良さ、手仕事であるか工業生産品であるか、本場のものか否か。本物かどうかとこれらには直接の関係はない。
あるとすればブランドとそのブランドを名乗る基準を作ったときだけだ。
いやいや、そういうコトコマカな言葉の使い方で言ってるわけではないんだ、作り手の誇りの表現なんだ、うちのオリジナリティをさしてそう言ってるんだ。
というのはまぁわかってはいます。だから会話の中ではこのエントリに書いてるようなことは、なるたけ言わない。
ただどうも「似て非なるもの」を「ニセモノ」と非難しているように聞こえて、「本物の」「本物を」という表現は苦手だ。
これは私個人の感覚で、気を悪くしはったら、ごめんなさい。というほかないんだけれど。
自然栽培のキュウリと慣行栽培のキュウリは、それぞれ求められているものに応じた栽培方法を取られているに過ぎない。
注染はそもそも工業的な大量生産のために編み出された技法だ。プリント手ぬぐいはその方向性の上にあるよね。(別の切り口ではプリントと捺染は同じものだったりするわけで)
伝統的原料と製法で作ったものを「本物」と表現すると、「本物」はそうでないものよりも特定の品質において劣ることはよくあったりする。
「似て非なるもの」はそれぞれ別の「本物」なのになぁ、と思う。