騒音苦情と不安の話

精神障害者の方のグループホームと、その建設を巡る反対運動との関わりを記録した映画「不安の正体・精神障害者グループホームと地域」を鑑賞した方のnote。

 

note.com

 

「こういった話題に興味が“ない”人にこそ見て欲しい」と筆者は言うが、印象に残ったのは、ここ。

 
「自由って言ったって、こうした方がいいでしょ」という常識スイッチが、自分の中にある事を無視できないと言うか…。しかしこの“常識スイッチ”こそ、恐らく、他者を縛る偏見なのです。


賃貸管理で騒音苦情を受けた際に、こう言われたことがある。
騒いでいるのが障害者だということで(これも推測で言っているようだった)、
「普通の住宅街なのに、障害者が住むなんて」
障害者だろうが健常者だろうが、騒ぐのはよくないので注意します、と答えた。

 

あるいは騒音やゴミの苦情を頻回に通報してくる人がいる。
警察にもしょっちゅう通報するので、警官もしょっちゅうやってくる。
ただし、苦情を言ってくるのはその人だけである。聞き合わせをしても、他の方は「(音やゴミが)ないことはないが、生活していればそういうものなので」
なのだ。

 

2番目の話は、この間騒音苦情で公園を閉鎖したとされる騒動と相似形である。
この騒動について、東洋経済に興味深い記事がある。

toyokeizai.net

騒音問題の解決には、「節度と寛容とコミュニケーション」が必要というのが筆者の持論です。「音を出す側の節度」と「聞かされる側の寛容」、そして、それをお互いが感じ取れるコミュニケーションが必要です。しかし現実には、音を出す側は相手を「不寛容だ」と非難し、聞かされる側は「迷惑騒音だ」と節度のなさをののしり、相手の悪意を感じ取るだけのコミュニケーションしか存在しないという真逆の状況が蔓延しています。


この筆者の言はもっともなことで、騒音苦情を受けたときの「加害者」には、挨拶とコミュニケーションをお願いしているし、こちらがお願いするとだいたいの方はそのように対応してくださる。
が、それで「聞かされる側の寛容」が得られることは経験上少ない。

 

肝要なことは記事の前段に記述がある。

これまでは、保育園建設に反対する人は「静かな地域に住む高齢者」という一般的な論調がありましたが、意識調査結果を統計学的に検定すると、性別、年代、居住歴の長さ、家族構成、仕事の有無(在宅時間が長いか)、用途地域(静かな場所かどうか)のいずれに関しても明確な関連は見られませんでした。数値的には、まったく関係ないといってもよい結果です。

唯一、明確な相関関係が確認されたのは、「騒音に対する不安を感じるか」という質問の回答だけでした。

 

障害者グループホーム建設の「不安」の話とここでつながる。

 

そして精神疾患精神障害のことをご存じの方は特によくご存じと思うが、

「不安」を解消するのが「節度と寛容とコミュニケーション」であるのは、「不安」が「苦情」という形をなすよりもかなり手前のこと、「不安」が「不安」としてとらえられるよりも前の話なのだ。

いったん「不安」が形をなしてしまえば、それを解消するのは「節度と寛容とコミュニケーション」「物理的な対策」だけでは足りず、必要なのは「両当事者への寄り添いとカウンセリング」である。

 

「常識の範囲内の音」だろうと、「子どもはのびのびと育てるべき」であろうと、「障害者への差別はよくない」であろうと、常識や正義正論をいくら説明したって、

「被害者」の言ってることが第三者から見て、過敏であろうが妄想であろうが行き過ぎた不安であろうが、

「被害者」が現に辛い目にあっていることは変わりはしない。かくして問題は解消しない。

 

そして「(「被害者」への)寄り添いと、両当事者へのカウンセリング」は賃貸管理の業務外である。

当事者とそのまわりのご近所づきあいの積算が「寄り添いとカウンセリング」の形になることを祈りつつ、弊社の定型的な騒音処理と、聞き上手のスタッフの電話口での愚痴聞きがその輪の一端を構成するといいな、と願いつつ、

今日も「常識」という土足で「被害者」の足を踏む。

 

閑話休題

「被害者」が自分の抱いているものが「不安」(あるいは「過敏」)だという自覚があれば、それが病気や障害に起因するものであろうと、状況が引き起こす一時的なものであろうと、対策はたてやすいと思う。
ただ「不安」が形をなしてしまうと、逆に自覚するのは経験と訓練がいるようなのよね。

精神障害者が騒ぐ」のは多くの場合、不安などからくるパニックなのだが、障害者グループホームの場合、入居者も管理者も自覚があるので、自覚のない「不安」よりはcontrollableだし、パニクった場合の対処も心得ているケースが多いです。

 

閑話休題2。

「子どもはのびのびと」
私もそう思う。どっちをとるか、と言われたら、たぶん子どもをとる。
でも足を踏んでるんだという自覚は持っておきたいと自分に願う。
願う、というのは自信がないから。

 

 

 

 

 

 

 

身体性と好奇心

今の子どもは刃物を使えないことが多い。使ったことがないから 昔の子が持っていたスキルを持っていないことが多い 子どもに限らず、今の社会は昔自分達が持っていたスキルを失っていることがおおくて、現代人は生きる力がうんぬんという言い回しをときどき見るけれど。

サバイバル技能はそりゃあるに越したことはないが、そういう話ではないと思うので、今の社会と昔の社会で求められるスキル、身に付けたくなるスキルが違うだけだと思う。 生きる=サバイバルするためのスキルの優先度が低くて、ゲームや読書や好きな遊びのスキルを好奇心の赴くままに身につけられる。

なんて幸せな時代だろう

さて、「生きる=サバイバルするためのスキルの優先度が低くて、ゲームや読書や好きな遊びのスキルを好奇心の赴くままに身につけられる」 キモは、後半「好奇心の赴くままに身につけられる」のところで。

なんでかはわからんが、われわれヒトの脳と身体は好奇心の正のフィードバックを受けるようにできているようだ。 「自由な遊びが楽しく」て「どんどん新しい遊びができて」はまさにそれ。好奇心と工夫が正の方向に循環してゆく。 先達が自分の好奇心に好奇心を持ってくれれば最高。

外遊びでのプレイパーク、ゲームではマイクラなどはシステムとしてそれがとてもうまく設計されてるなと思うし、 読書や勉強などは、ある瞬間に一気に世界が広がりさらに先を探っていきたくなる。ビバ好奇心。

「生きる=サバイバルするためのスキルの優先度が低くて、ゲームや読書や好きな遊びのスキルを好奇心の赴くままに身につけられる」 そしてこの前半部のありがたく幸せなところは、社会全体――――すなわちヒトの群れ全体としてみたときに、スキルの多様性が生まれ広がること、そして

サバイバルが優先されざるを得ない環境では適応できない、ある意味弱い個体も、好奇心の正のフィードバックを享受できる機会が多いことにある。
その経験は、その個体が「生きていく力」になるよ。

またヒトの社会で今まで失われた技術はたくさんあるけれど、それを補う知見が記録され積み重ねられ、その結果、技術が生まれている。
それらの中には何の役にも立たなさそうにみえた好奇心や遊びから生まれたものも多分に含まれる。

身体性をともなわない好奇心の多様性も、回り回ってヒトの社会が生きていく力になっているし、
むしろ身体性をともなわないスキルをもヒトの社会が生きていく力にすることができるのが、ヒトという動物の特徴であると思う

なお、ヒトも動物である以上、身体性は重要であることはいうまでもない。念の為。

ただどうか、身体性をともなわない方向への好奇心を、
「本ばっかり読んで」「漫画ばっかり読んで」「テレビばっかり見て」「ゲームばっかりして」「勉強ばっかりして」と、
身体性をともなうものよりも貶めないでほしい。
そして好奇心を伸ばしてやってほしい

それは同じ好奇心――――生きる力の素だ。

回覧板の機能

町会の回覧板。
新型コロナウイルス感染予防、ということで

「回覧板は対面での手渡しではなく、ポスト投函を」

という注意書きつきでまわってきました。

わざわざ注意書きがある、ということは対面手渡ししている人がそこそこいるんでしょう。うちの隣組は今までからずっとポスト投函だけど。

 

さて、回覧板はいちおう「町会内での情報の伝達」というのが建前上の機能。
でも今どき、情報伝達だけなら、メールなりLINEなりで配信すればいいわけです。
街中の掲示板にも回覧板の内容は貼られているし、意義はわかるけど個人的には重要度の低い情報が多いし、この時節にぺたぺたみんなで触ったものを「わざわざ」回さなくても。

 

実際、共用部のある賃貸集合住宅は回覧板形式ではなくて掲示板への掲示ですませてるところが多いです。

 

で、回覧板。掲示はするとして、「従来通り物理的に回すのと、電子配信とどっちがいいと思う」というのをダンナとおしゃべりしましたが、「電子より物理」で意見が一致しました。電子はあったほうが便利だけれど。

 

強制的に目に入る物理つよい。

 

そしてたぶん、回覧板の機能の肝は、情報伝達ではなく上にカギカッコをつけた「わざわざ」が生み出す部分です。
隣の家に持っていく、というただそれだけの「わざわざ」ですが、受け手につぎのアクションを取らせるシステムです。
うちの隣組は飛び地があるから、端から端まで300mあるけど。
うちは端っこなので、年によっては回覧板回すために300m歩くけど^^;

 

この「わざわざ」が生むものってけっこう大きいと思うんですよ。

・未読スルー割合を(建前上は)ほぼなくせる。

・けっこう印鑑やサインから読み取れる情報多い。ちりも積もれば。

・安否確認

あれ? 思ったほど書けないな。

なんせ、受動的に情報を受けとるだけではなくて、許容できる程度の能動があるっていうのが回覧板の機能の本質だと思ったんですよ。

 

この小さな「わざわざ」が町会と会員全員を能動的につないでいる。

 

ゴミ置き場の掃除当番とか、溝掃除とか防災訓練とか、もっと大きなプログラムはいろいろあるんですけれど、これらがちょっと重たく感じる人にも敷居が低いじゃないですか。

 

「町会」そのものシステムの是非はまた別のお話しなので横へ置いて、
地縁コミュニティと、回覧板のような小さな「わざわざ」って、
うまく使えばうまく使えるんじゃないかと思った次第です。

 

まぁでもコロナ予防との相性はあんまりよくはないわな。

新型コロナ、感染者数グラフの見方

新型コロナの感染が身近なことという実感が高まり、感染者数の発表を気にする方も多いと思います。

またあちこちのサイトで感染者数のグラフも目にするようになりました。

 

けれどもみなさんが最も関心のあると思われる、感染の広がる速度と傾向を見るのに、

この「縦軸:実数 横軸:時系列」のグラフは見づらいのです。

なぜなら感染者数はねずみ算で増えるから。立ち上がりが曲線かつ急すぎて見づらいんですね。

 

感染の広がる速度と傾向を見るのには、「縦軸:対数 横軸:時系列」のグラフが見やすいです。

対数グラフの目盛りの説明は

news.yahoo.co.jp


を見ていただいて、一部を引用します。


「直線が現れる場合、それが指数関数的に増加・減少していることを表します。今回の場合は、

・感染者数自体が、指数関数的に増加するため、実態に即している。

・過去の数値や未来におけるシナリオ別の変化量を直線で想起することができる。

・増加や減少などの推移が近似している国がどことどこだか、わかりやすい。」

 

ざっくりいいますと、対数グラフで累計感染者数を見たとき

 

・右肩上がりの直線:感染拡大中。

 傾きが大きいほど爆発的(制御できてない)。

 傾きが小さければ感染は拡大中だが一定の制御ができている。

 

・水平線:収束

 

ということになります。

 

人口100万人あたりの各国累計感染者数の対数グラフを札幌医大が公開しています。

https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/?rg=East%20Asia

画像は2020年4月5日のもののスクリーンショット
日本と、中国・韓国、日本とグラフ傾向が似ているシンガポール、西欧代表でイタリア・ドイツ、そしてアメリカを表示しました。

 

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各国累計感染者数

中国は2月中にほぼ収束、韓国も3月初頭にはよい状態ですね。

韓国の初期と、いま「爆発中」の西欧・アメリカの当初2週間は似た傾きです。制御が効かないとこの傾きになると考えるといいと思います。直近の日付で傾きが緩やかになってきたのは、ロックダウン等の効果でしょう。

日本と シンガポールは健闘中だけど収束は見えてないので、油断すると傾きが急になる可能性があります。

 

ちなみに累計死者数のスクリーンショットはこちら。こちらについては、各国の医療状況を知らないのでノーコメント。

f:id:Takemi-sigino:20200406003409p:plain

各国累計死者数

 

英語になりますが、下のサイトは各国のロックダウン日がグラフに示されていて、外出制限が功を奏するのにかかる日数も見やすいです。

https://www.ft.com/coronavirus-latest

外出制限の結果が統計に表れるのには日数がけっこうかかります。国による差もありますが、外出制限を続けて対数グラフの傾きがゆるくなるまで、だいたい2~3週間というところでしょうか。傾きを水平にするにはもう少し時間がかかりそうです。
なお、ロックダウン中でも、日用品の買い物は距離を保ったうえでOK、飲食店営業は休業ではなくテイクアウト営業のみ、短時間の散歩も距離を保ったうえでOK、という国が多いようです。不要不急ならぬ「必要」とはなにか、というのは先達の例が出そろってきました。

なお、このサイトには累計ではなく、7日間平均の1日あたり感染者数の対数グラフもあります。

この場合、

・右肩あがり:感染拡大中

・水平:均衡

・右肩さがり:収束に向かっている

となります。

 

この英語サイトのグラフから読み取れることは、コロナの潜伏期間とされるものによく一致していて。

営業外出自粛期間が

・2週間以下
→拡大抑制
 あくまで抑制なので感染者実数は増える。
 抑制効果がグラフに見えるのは二週間目以後なので、例えば一週間自粛のあと営業再開検討しても、感染者数はまだ指数関数的に増加中。
 意味がないわけではなく、退院者も出るので、抑制によって集中治療が必要者に行き渡る体制を取る、という戦略としてあり。

・2週間
→鎮圧効果が出る。二週間たったらグラフにも見えてくる。

・4ー8週間以上
→期間経過後には収束方向がグラフに見える。次波に注意。

という感じです。

いわゆるロックダウンしてる国も全く人が外に出なかったり経済活動が完全にストップしてるわけではありません。
飲食店であればテイクアウトやデリバリー営業に絞られるケース、散歩・買い物は人間同士の距離を空けて短時間で、というケースが多いです。
諸国の例はこちらのリンクで。犬の散歩OKで、過労な犬とかいてたりします。

https://togetter.com/li/1485425

情報という名のラヴレター

マチュア物書きをしています。

もともと小説書いたりコラム書いたりなんですが、最近の書き物は地元イベントの紹介に偏っている今日この頃で、頭痛が痛いのであります。とても楽しいんだけど、他のものも書きたい。

 

情報というものはどんなものであれ、発信しないと存在しませんが、受け手がいないと意味をなさない。その受け手は目の前の人なのか、社会全体なのか、まだ見ぬ未来の人なのか、というのはあります。

 

同人誌的な、あるいはオタク的なモノの書き方というのは、とにかく対象ネタへの愛をがんがん掘って書いていって、その愛にアテられる受け手を待つわけです。

手づくり作家さんもこういう層の方は分厚いですね。自分の作品、素材に手をかけ愛をかけて作り上げて、それに共感してくれる人が顧客です。

受け手のことをとりあえず棚にあげる、という意味ではマスターベーションですが、おもしろいもので好事家の輪が広がります。ただ、輪の外側からは閉じたコミュニティに見えがち。

まぁある意味、書き手作り手の矢印は内側に向いてますから、むべなるかな。

 

通信社的なモノの書き方は、書き手の愛は主に、正確性速報性中立性に向けられます。

万人に向けられたシンプルな記事。ただ、万人向けということは、だれかに刺さる、ということは少ないのです。全方位を向いた矢印の集合はただの球で、結局だれにも向いていません。

だれかに刺さる記事を書くのは、通信社の報を受けた別のメディアの仕事って感じ。

だってエモーショナルであることは、正確性中立性と反しますから。余分な感情は出来るだけ廃し、事実を書くことに努める文です。

 

 

上に「だれかに刺さる」「エモーショナル」と書きました。特定の「だれか」。マーケティング用語でいうところのペルソナです。

よく、モノを売るのに、地域を愛するのに、ストーリーが大事といいますね。ストーリー=「物語」。すなわち単純な事実や筋立てではなく、人の心を動かすエモーショナルさが入った「物語」。

ペルソナを想定し、ペルソナに矢印が向いていて、その感情を動かす文、物語。ペルソナへのラヴレター。

情報の受け手を動かす文章はそういう文なのだと思います。

週刊誌月刊誌って、そういうのがよく出るメディアですよね。ネットでは美容健康、心理、情報商材なんか、すごくあからさまです。

 

 

私の文の書き方は、はじめに書いたオタクのそれなんですね。

同人作家的な内向き矢印なスタイルでもエモーショナルな文を書く人はたくさんいますし、描き続ければ多くのファンを持つにいたります。エモーショナルであること、共感的であることは、人の心をよく動かします。

私は基本的に人間への関心が薄いせいか、感情をあらわす語彙がひどく乏しくて、小説を書いていても人の心の内側を直接描写することはほとんどありません。

その代わりに、手が震えているだとか、普段なら転ばないシチュエーションで転ぶとか、そういう外から見えるものを書くのが私の文章で、エモーショナルには遠いかたい文です。

 

対象の内側は見えないので、外側を出来るだけ多角的に、距離もいろいろ取りながらじっと見て、一部を切り出して文章にします。イベントの出店者紹介を書くときはそんな書き方をしています。(文体は自分のデフォルトよりも少しやわらかくしています)

わりと顧客層のはっきりしたイベントですが、そこに向けたエモーショナルさ、その人たちの抱く共感がどういうものなのか、実感がないので、そこに向けたラヴレターが書けないのです。

形だけまねるのを繰り返して身につける(形で覚えたことはいつか頭に届きます)という方法はありますが、なにぶんボランタリーでやってることなので、そこまで力を入れる気持ちもゆとりもないのが正直なところ。

そのかわり書く対象にはその時できうる限りの偏愛を注いで書いています。集客を要するイベント向けの文章としては、次善の策ではありますが。

 

愛は感染することを信じて。

 

都会と田舎とマチとムラ

まちおこし地域活性化の話でときどき耳にする「一丸となって」「all地域で」がとても苦手です。

何年か前に都会と田舎の違いはなんだろう、という話をよく子どもとしていて。建物の多さとか賑わいとかいろいろ互いに言いつつスッキリしなかったんだけど。
最近ちょっと自分の頭にはひとつの仮説ができてきて。それはコミュニティの存在の仕方なんですね。

乱暴にいうと、多様なコミュニティが複雑に重なりあって、個人のコミュニティ間の移動や所属の重なりの自由度が大きいのが「都会」。
コミュニティが複数あっても、それぞれがほぼ重なり合い、移動や所属の重なりの自由度が低いのが「田舎」。
ここで自由度というのはカオスと言い換えてもいい。

シンプルなコミュニティを「ムラ」、コミュニティ群が多様化しているのを「マチ」と言い換えると、もちろんマチの中にムラはたくさん存在するのだけど。
ムラから出るという選択が、地域から出るという選択にそのままつながりやすいか否かが「都会」と「田舎」の違いともいえるかもしれません。


そういう意味では私はマチ育ちですし、マチが好きです。


学校、特に小学校なんてのは、ホント「ムラ」で、子どもならではの潔癖さや教える側の理想もあって、げふんげふん。つらい。


地域活性したい方。あなたがやりたいのは「ムラおこし」ですか? 「マチおこし」ですか?
どちらも大事だと思いますが、両方「まちおこし」と日常では言うので、混線注意です。

今は電脳空間にもコミュニティがあって、自分の住む地域のしばりから自由なコミュニティにも棲むことができるのはとてもありがたい世の中です。


コミュニティが強いことが大事、とよく言われます。
一方で、自殺が少ないのはコミュニティのゆるい地域だという統計があります。あ。元論文まだ取り寄せてないや。
おそらく、強い単一コミュニティは、はぐれものを(社会的に、そして時には物理的に)殺すのです。
コミュニティが多様化していると、はぐれものが住む隙間ができやすいかなぁとちょっと思います。

「本物」ということば

最近、「本物」という言葉にちょっと辟易している。

じゃあ他のはニセモノなのか? というアマノジャクがついつい頭をもたげる。

 

というわけで、グチエントリです。

このブログはこういうグチ吐き場になりそうな気がする。

 

さて、いわく、「本物を知る」「本物をつくる」「本物を提供する」「本物の少ない世の中」などなど。

 

これが海賊品や不適切な表示の「ニセモノ」に対して、正規品を「本物」というならわかる。でもそうではなく、特に定義なく気分や感覚で言っていることが多いように思う。

消費者が気分や感覚で商品を講評するのは横へ置くとして、商品の提供者がそういう表現をするのが苦手だ。

 

自然栽培のキュウリをかじって「本物のキュウリの味」とか。

プリントの手ぬぐいに対して、注染手ぬぐいを「本物の日本手ぬぐい」とか。

 

品質の良さ、手仕事であるか工業生産品であるか、本場のものか否か。本物かどうかとこれらには直接の関係はない。

あるとすればブランドとそのブランドを名乗る基準を作ったときだけだ。

 

いやいや、そういうコトコマカな言葉の使い方で言ってるわけではないんだ、作り手の誇りの表現なんだ、うちのオリジナリティをさしてそう言ってるんだ。

というのはまぁわかってはいます。だから会話の中ではこのエントリに書いてるようなことは、なるたけ言わない。

 

ただどうも「似て非なるもの」を「ニセモノ」と非難しているように聞こえて、「本物の」「本物を」という表現は苦手だ。

これは私個人の感覚で、気を悪くしはったら、ごめんなさい。というほかないんだけれど。

 

自然栽培のキュウリと慣行栽培のキュウリは、それぞれ求められているものに応じた栽培方法を取られているに過ぎない。

注染はそもそも工業的な大量生産のために編み出された技法だ。プリント手ぬぐいはその方向性の上にあるよね。(別の切り口ではプリントと捺染は同じものだったりするわけで)

伝統的原料と製法で作ったものを「本物」と表現すると、「本物」はそうでないものよりも特定の品質において劣ることはよくあったりする。

 

「似て非なるもの」はそれぞれ別の「本物」なのになぁ、と思う。